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東京地方裁判所 昭和55年(ワ)5860号 判決

原告

堂前政昭

右法定代理人親権者父兼原告

堂前富昭

右同親権者母兼原告

堂前百合子

右三名訴訟代理人

伊東七五三八

被告

山田八之

右訴訟代理人

吉田康俊

被告

東京都

右代表者知事

鈴木俊一

右指定代理人

和久井孝太郎

外一名

主文

一  被告山田八之は、原告堂前政昭に対し、金一六〇万七四九七円及び内金一四〇万七四九七円に対する昭和五四年五月三日から、内金二〇万円に対する本判決確定の日から、各支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告堂前政昭の被告山田八之に対するその余の請求及び被告東京都に対する請求をいずれも棄却する。

三  原告堂前富昭及び原告堂前百合子の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用中、原告堂前政昭と被告山田八之との間に生じた費用の五分の一を被告山田八之の負担とし、五分の四を原告堂前政昭の負担とし、その余の費用は原告らの負担とする。

五  この判決は、原告勝訴の部分に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは原告堂前政昭に対し、金八九七万六六六〇円及び内金八〇〇万二六六〇円に対する昭和五四年五月三日から、内金九七万四〇〇〇円に対するこの判決確定の日から、各支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告らは各自原告堂前富昭及び原告堂前百合子に対し、各金一〇〇万円及びこれに対する昭和五四年五月三日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告らの負担とする。

4  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁(被告ら)

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

3  仮執行免脱宣言の申立(被告東京都)

第二  当事者の主張

一  請求原因

1(事故の発生)

(一)  原告堂前政昭(以下「原告政昭」という。)は、昭和四〇年一〇月二六日生れであり、昭和五四年五月当時、板橋区立上板橋第一中学校(以下「第一中学校」という。)二年六組に在籍していた。被告山田八之(以下「被告山田」という。)の二男山田泰弘(以下「泰弘」という。)は、昭和四〇年一〇月二一日生れであり、同中学校二年五組に在籍していた。

(二)  昭和五四年五月二日午後三時三五分頃、原告政昭は、第一中学校二年六組の教室の清掃を終えて帰り仕度をして、友人に悪戯されて隠された自分の帽子を探していた。そこへ、泰弘がサッカー部の特別練習に参加するため体操着に着替えようとして六組の教室に入つてきた。

原告政昭が教室から廊下へ出ようとして教室後方の出入口のところに行つた時、着替え終わつて教室を出る奏弘によつて背後から手拳で左後頭部の首の上付近を強打された。原告政昭には泰弘から殴られる理由として思い当たることは何もなかつた。

原告政昭は激痛のためその場にしやがみ込んでしばらくは動けなかつた。その直後、泰弘は体操着の服装で廊下へ出て階段を降りて行つた(以下、これを「本件事故」という。)。

2(被告山田の責任)

泰弘は、本件事故発生の当時満一三歳六か月で、自己の違法行為の結果につき法律上の不法行為責任を弁識するに足るべき知能を有していなかつたところ、被告山田は泰弘の親権者として泰弘を監督すべき法定の義務を有していたのであるから、原告らの被つた後記4の損害を賠償する責任がある。

3(被告東京都の責任)

(一)  本件事故当時、原告政昭の学級担任であつた小野富男教諭(以下「小野教諭」という。)及び泰弘の学級担任であつた吉富理之教諭は、それぞれの担任する学級の生徒について保護監督義務を負つていた。

(二)  本件事件の以前から、第一中学校二年生の中に腕力の強い者が弱い者いじめをするグループがあり、泰弘もそのグループに入つていた。

(三)  本件事故当時の第一中学校二年生の中に右(二)のようなグループがあり、弱い者に対し悪戯で暴力を振うことが横行していたのであるから、吉富教諭及び小野教諭は、弱い者いじめをする生徒に対し説諭するとか、その親と話し合うとか又は生徒を常時監視する等の方法により、本件事故の発生を未然に防止すべく適切な措置を行う保護監督義務があつた。

(四)  本件事故は、放課後に教室内で発生したものであり、原告政昭は教室の掃除当番として掃除を終え、帰り仕度をしていた時の事故であるところ、掃除は学校の教育活動の一部であるから、本件事故はこれと密接不離の生活関係における事故として、右両教諭の保護監督義務の範囲内で発生したものである。

(五)  しかるに、右両教諭は学級担任として当然行うべき保護監督義務を尽さず、漫然と事態を放置した過失によつて、本件事故を発生せしめたものである。

(六)  右両教諭は、東京都教育委員会により任命された被告東京都(以下「被告都」という。)の公権力の行使に当る地方公務員であり、その職務を行うにつき過失があつたのであるから、被告都は国家賠償法一条により原告らの被つた後記4の損害を賠償する責任がある。

(七)  市町村立学校職員給与負担法一条には市(特別区を含む)町村立中学校の教諭の給料その他の諸手当等は都道府県の負担とする旨の規定がある。従つて、本件において仮に小野教諭及び吉富教諭が被告都の地方公務員ではないとしても、被告都は国家賠償法三条一項の費用負担者として後記4の損害を原告らに対して賠償すべき責任を負う。

4(損害)

(一)  本件事故により原告政昭は、後頭部挫傷、頸椎捻挫、右下肢麻痺の傷害を受けた。

(二)  治療の経過は、次のとおりである。即ち、本件事故当日、原告政昭は板橋区南常盤台一丁目一五番一四号金子外科病院に入院し、同年六月五日までの三五日間入院治療し、同年五月二九日から同年一〇月二九日までの間に、八五日、同区大谷口上町三〇番一号日本大学医学部附属板橋病院(以下「日大板橋病院」という。)に通院治療を受けた。その間、右下肢麻痺が軽快しないため、文京区本郷七丁目三番東京大学医学部附属病院(以下「東大病院」という。)に同年七月二〇日から同年九月五日まで通院治療を受け(通院日数一一日)、中央区日本橋本町一―一日本橋接骨院に同年七月五日から昭和五五年三月二六日まで通院治療を受け(通院日数四四日)、昭和五四年七月二三日から二七日までの五日間、神奈川県箱根町湯本六九三番地菊地鍼灸治療所に通院して針治療を受けた。また、同年一〇年三一日から昭和五五年二月二六日まで新宿区戸山町一番地国立病院医療センターに一一八日間入院治療を受けた。同センターを退院した後は、板橋区栄町三五番地養育院附属病院にリハビリテーションのため通院している。

(三)  後遺傷害については、原告政昭の機能回復の努力により次のような経緯をたどつた。

(1) 昭和五六年一月一九日の時点では「躯幹を含む右弛緩性麻痺、左に右より軽度の痙性麻痺を呈する。自立での起立他不能。歩行能力の程度〇メートル、起立位〇分、座位可能」と診断され、この時点の傷害は後遺傷害別等級表の二級に該当した。

(2) 昭和五七年六月二五日の時点では、「疾走困難、右足先がひつかかる感じ、右手指運動緩慢、巧緻性やや欠如、右膝蓋腱反射消失、右足先特に趾の伸展困難、跛行は殆んど目立たない」と診断され、この時点の傷害は後遺傷害別等級表の六級に該当した。

(3) 現在も神経系統の機能の傷害が残つているが、後遺傷害は、後遺傷害別等級表の一四級に該当する。

(四)  本件事故により原告政昭の被つた積極損害は次の(1)ないし(7)のとおりである。

(1) 治療費 金七六万二三六九円

内訳は、金子外科病院金一九万五一一〇円、日大板橋病院金二万九四〇〇円、東大病院金二万二八四二円、日本橋接骨院金一三万五〇〇〇円、菊地鍼灸治療所金一二万一五八二円、国立病院医療センター金二五万八四三五円である。

(2) 入院付添費 金一〇万五〇〇〇円

一日当たり金三〇〇〇円として金子外科病院への入院三五日分である。

(3) 入院雑費 金一五万三〇〇〇円

一日当たり金一〇〇〇円として金子外科病院三五日及び国立医療センター一一八日計一五三日分である。

(4) 通院付添費 金二九万円

通院一日当たり金二〇〇〇円として日大板橋病院八五日、東大病院一一日、日本橋接骨院四四日、菊地鍼灸治療所五日計一四五日分である。

(5) 通院交通費 金一四万五〇〇〇円

通院一日当り金一〇〇〇円として右(4)のとおりの通院日数一四五日分である。

(6) 便器購入費 金六〇〇〇円

(7) 医師等へのお礼 金二四万一〇〇〇円

右(1)ないし(7)の合計は金一七〇万二三六九円である。

(五)  本件事故による原告政昭の逸失利益は、次のとおり計算されるから金三四三万〇二九一円である。

即ち、賃金センサス昭和五七年第一巻第一表男子労働者学歴計給与額は年収三七九万五二〇〇円、就労可能年数は、一九才から六七才までの四八年であつてこれに対応するライプニッツ係数は一八・〇七七であるところ、原告政昭の労働能力喪失率は五パーセントであるから、次の計算式により、逸失利益は、金三四三万〇二九一円である。

三七九万五二〇〇円×一八・〇七七×〇・〇五=三四三万〇二九一円

(六)  本件事故による慰藉料としては、原告政昭について入通院慰藉料は金二一二万円、後遺傷害に対する慰藉料は金七五万円が相当である。

(七)  原告政昭の両親即ち原告堂前富昭(以下「原告富昭」という。)及び原告堂前百合子(以下「原告百合子」という。)が本件事故によつて被つた精神的苦痛を慰藉するには各金一〇〇万円が相当である。

(八)  原告政昭は本件訴訟の提起及び追行を原告ら訴訟代理人に委任し、その報酬として金九七万四〇〇〇円を支払う旨約した。

(九)  右(四)ないし(八)の損害額の合計は、原告政昭について金八九七万六六六〇円並びに原告富昭及び原告百合子について各金一〇〇万円である。

5(結び)

よつて、被告山田に対しては民法七一四条に基づき、被告都に対しては国家賠償法一条、三条に基づき、各自、原告政昭は金八九七万六六六〇円及び内金八〇〇万二六六〇円(弁護士費用を除く分)に対する本件事故の日の翌日である昭和五四年五月三日から、内金九七万四〇〇〇円(弁護士費用の分)に対するこの判決確定の日から、各支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金、原告富昭及び原告百合子は各金一〇〇万円及びこれに対する右同日から支払済まで右同割合による遅延損害金の、各支払を求める。

二  請求原因に対する認否

(被告山田)

1(一) 請求原因1(一)の事実は認める。

(二) 同1(二)の事実のうち、昭和五四年五月二日午後三時過ぎ、第一中学校二年六組の教室の清掃が終わつたこと、泰弘がその時刻ころ二年六組の教室に出入りしたことは認め、同教室で泰弘が体操着に着替えたこと及び泰弘が原告政昭の後頭部を強打したことは否認し、その余は不知。

2 同2の事実のうち泰弘が本件事故当時満一三歳六か月であつたこと及び被告山田が泰弘の親権者であつたことは認め、その余は否認する。

3(一) 同4(一)の事実のうち、本件事故により右下肢麻痺の傷害を受けたとの点は否認し、その余は不知。

(二) 同4(二)の事実のうち、原告政昭が原告ら主張の各医療機関に入院又は通院したことは認めるが、その余は不知。

(三) 同4(三)ないし(六)の事実は不知。

(四) 同4(七)の事実のうち、原告富昭及び原告百合子が原告政昭の両親であることは認め、その余は不知。

(五) 同4(八)、(九)の事実は不知。

(被告都)

1(一) 請求原因1(一)の事実は認める。

(二) 同1(二)の事実のうち、昭和五四年五月二日午後三時過ぎに原告政昭が二年六組の教室の清掃を終えて帰り仕度をして友人に悪戯されて同人の帽子を探していたこと、そこへ泰弘が体操着に着替えるために二年六組の教室に入つてきたこと、原告政昭が教室から廊下へ出ようとして教室後方の出入口のところへ行つた時、泰弘が手拳で原告政昭の後頭部の首の上付近を殴打したこと、泰弘が体操着の服装で廊下へ出て階段を降りて行つたことは認め、その余は不知。

2(一) 同3(一)の事実は認める。

(二) 同3(二)の事実は否認する。

(三) 同3(三)及び(四)は争う。

(四) 同3(五)の事実のうち、原告政昭が教室の掃除当番であつたこと、同人が掃除を終つたこと及び掃除が学校の教育活動の一部であることは認め、本件事故が吉富教諭及び小野教諭の保護監督義務の範囲内で発生したものであるとの主張は争う。

(五) 同3(六)の事実のうち、吉富教諭及び小野教諭が東京都教育委員会から任命された地方公務員であることは認めるが、両教諭が被告都の地方公務員であることは否認し、その余の主張は争う。

3(一) 同4(一)の事実のうち、原告政昭が後頭部挫傷の診断を受けたことは認めるが、その余は不知。

(二) 同4(二)の事実のうち、原告政昭が原告主張の各医療機関に原告主張のとおりの各日数入院又は通院したことは認めるが、その期間については不知。

(三) 同4(三)ないし(六)の事実は不知。

(四) 同4(七)の事実のうち、原告富昭及び原告百合子が原告政昭の両親であることは認め、その余は不知。

(五) 同4(八)、(九)の事実は不知。

三  被告らの主張

(被告山田)

1 本件事故の前後の状況について。

(一) 泰弘は、第一中学校のサッカー部に所属していたところ、本件事故当日は練習日ではなかつたので、泰弘は体操着を学校に持参していなかつた。ところが当日は特別練習が行われることになつたので、二年六組の友人から体操着を借りることとし、友人の新井有浩と共に六組の教室に入つて体操着を受け取つた。その時には既に教室の掃除は終つており、泰弘は原告政昭の姿を見かけないで教室を出て、サッカー部の部室に行き、そこで体操着に着替えた。従つて、泰弘は原告政昭を殴つていない。

(二) その後、五月六日に第一中学校の生活指導教諭藤田誠二が泰弘を詰問し、顔面を殴打して原告政昭を殴打したのは泰弘であるときめつけたのである。

(三) 被告山田が六月中旬に、原告らに対して見舞金として金一〇万円を支払つたことはあるが、これは学校側から真実はどうであれ見舞金として一〇万円を持つて行つてけりをつけたらどうかと言われ、被告山田も、この事件で家庭が暗くなり学校との関係もしこりができたので、一〇万円で一切のわずらわしさから解放されるのならと考えたからである。

2 損害について

原告政昭は先天性の虚弱児であつたため、普通の生徒同志であれば何でもない行為でも、本件のような結果となつたのである。従つて、そのような虚弱児を入学させた被告都又は板橋区に賠償責任があり、本件は、右両者と原告らとの間で解決されるべき問題であつて、被告山田には責任がない。

(被告都)

3 請求原因3(三)の主張について。

原告らは、小野教諭及び吉富教諭の保護監督義務の一例として、生徒を常時監視することを主張しているが、これは両教諭に教育活動を行うことを事実上放棄せしめ、しかも監獄の看守のような義務を負わせるに等しい措置を要求するものであつて、中学校教諭の保護監督義務の内容としては到底是認できない。

4 請求原因3(四)について。

中学校の教諭がその生徒に対して負う保護監督義務の範囲は、親権者らの法定監督義務者のそれが子の全生活関係に及ぶのと異なり、学校教育の場における教育活動及びこれと密接に関連する生活関係に限られると解される。

ところで、本件事故は、二年六組の教室内で発生したが、右教室の清掃は午後三時五分に終了しており、その後、三五ないし四〇分経過した午後三時四〇ないし四五分に本件事故が突然に発生したものである。なお、生徒の下校時刻は午後三時三〇分とされていた。

従つて、本件事故は、教育活動又はこれと密接に関連する生活関係から生じたものとはいえず、小野教諭及び吉富教諭の保護監督義務の範囲外における事故である。

5 請求原因3(五)について。

仮に、小野教諭及び吉富教諭について請求原因3(三)のような、本件事故以前に泰弘に説諭し、又はその親と話し合うべき義務があつたとしても、それによつて経験則上必ずしも泰弘が弱い者に対して悪戯で暴力を振うことをやめるとはいえず、また、泰弘の本件事故における行為は、全く悪気のない児童生徒に通常よくみられるふざけ半分で行われたものであつて、偶発的なものであり、前記のような義務の違反行為(教諭らの不作為)とは相当因果関係がないものというべきである。

6 請求原因3(六)について。

被告都は、本件に関して、国家賠償法一条に基づく賠償の責任主体でない。

即ち、東京都の特別区は、その区域内にある学齢児童を就学させるために必要な中学校を設置する義務を負つており(学校教育法二九条、四〇条、八七条)、かつ、右中学校を設置管理することは、特別区の事務に属するとされている(地方自治法二条三項五号、同条九項、別表第二の二の二七、二八一条二項)ところ、国家賠償法一条に基づく賠償責任は、学校の設置管理者である地方公共団体が負うものであつて、当該公権力の行使に当たる教職員の身分の所在若しくは教職員に対する任免権及び指揮監督権の所在の如何にかかわりなく、当該公権力の行使にかかる事務の帰属主体である地方公共団体が責任主体となるのである。本件については、右両教諭は、特別区である板橋区の設置管理する中学校に勤務する教育公務員であつて板橋区の教育事務に従事していた者であるから、右両教諭の身分等の所在が被告都に属するか否かにかかわらず、国家賠償法一条に基づく賠償の責任主体は、板橋区である。

四  被告らの主張に対する認否

1(一)  右三1(一)の事実のうち、泰弘が原告政昭の姿を見かけないで教室を出てサッカー部の部室に行き、そこで体操着に着替えたこと、泰弘が原告政昭を殴つていないことは否認し、その余は認める。

(二)  同三1(二)の事実は不知。

(三)  同三1(三)のうち、原告らが被告山田から見舞金として金一〇万円を受け取つたことは認め、その余は争う。

2  右三2の事実のうち、原告政昭が先天性の虚弱児であることは否認し、その余は争う。

3  右三3は争う。

4  右三4の事実のうち、二年六組の教室の清掃が午後三時五分に終了したとの点及び本件事故の発生時期が午後三時四〇ないし四五分であつたとの点を否認し、小野教論及び吉富教論の保護監督義務の範囲外における事故であるとの主張は争う。

授業終了後にホームルームの時間があり、これは三時一〇分か二〇分には終わる。清掃はそれから一五分か二〇分かかる。本件事故の日は、清掃の終了時刻は午後三時三五分ころで、本件事故が発生したのはその直後である。

5  右三5及び6は争う。

五  抗弁(被告ら)

原告らは、本件事故に関し、日本学校健康会(旧日本学校安全会)から、昭和五四年一二月二〇日に金七万〇二九〇円、昭和五九年五月九日に金二二〇万円をそれぞれ受領し、昭和五四年六月中旬に被告山田から見舞金一〇万円を受領したので、右合計金二三七万〇二九〇円については損害の填補を受けている。

六  抗弁に対する認否

抗弁事実のうち、原告らが昭和五四年一二月二〇日に日本学校安全会から金七万〇二九〇円を受領したこと及び昭和五四年六月中旬に被告山田から見舞金として金一〇万円を受領したことは認める。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求原因1の事実(事故の発生)について検討する。

1  請求原因1(一)の事実(原告政昭及び泰弘の生年月日及び当時の在籍クラス)並びに同1(二)の事実のうち昭和五四年五月二日午後三時過ぎに第一中学校二年六組の教室の清掃が終わつたこと及び泰弘がその時刻ころ同教室に出入りしたことは当事者間に争いがない。

同1(二)の事実のうち、清掃が終わつた後に原告政昭が友人に悪戯されて隠された帽子を探していたこと、そこへ泰弘が体操着に着替えるために同教室に入つてきたこと、原告政昭が教室から廊下へ出ようとして教室後方の出入口のところへ行つた時、泰弘が手挙で原告政昭の後頭部の首の上付近を殴打したこと、泰弘が体操着の服装で廊下へ出て階段を降りて行つたことは、原告らと被告都の間において争いがない。

2  〈証拠〉を総合すると次の事実を認めることができる。

昭和五四年五月二日は水曜日であつたが、第一中学校の午後の授業は午後二時五〇分に終了し、一〇分程度の学活(ホームルーム)の後、クラスの清掃当番によつて教室の清掃が行われた。二年六組の教室の清掃は午後三時一〇ないし二〇分ころ終了したが、原告政昭は自分の帽子が見つからなかつたので、同教室で探していた。午後三時三〇分に下校時刻を知らせるケャイムが鳴つた後、同教室には、原告政昭、ツツイ、鯨剛、柳沢という生徒がいたところへ、泰弘と新井有治が入つてきた。ツツイも原告政昭と同様自分の帽子を探していたが、帽子が見つかつたので右教室を出て行き、新井有治も右教室を出て行つた。原告政昭が右教室後方出口から出た後、泰弘も右教室を出たが、その際、泰弘は原告政昭の後ろから同人の後頭部(首の上あたり)をいきなり一回手挙で殴り(以下「本件暴行」という。)そのまま左手階段を降りて行つた。

証人山田泰弘は、『当日の午後三時過ぎころ、二回ほど二年六組の教室に出入りした、一回めには同教室に五人くらいの生徒がいるのを見たがその中に原告政昭がいたかどうか覚えていない、その時、自分は友人の沢田に貸していた体操着を返してもらうつもりで同教室に行つたが、体操着が見つからず、沢田にたずねるために同教室を出て一階に行つた、その場所をきいてからもう一度同教室に戻つたが、そのとき同教室付近には誰もいなかつた、その後校庭のベンチで体操着に着替えてサッカー部の練習に参加した』旨供述している。

しかしながら、右証人の供述は、五月二日の午後三時過ぎに二年六組の教室に一回めに出入りした際に五人くらいの生徒がいたと述べながら、その中に原告政昭がいたか否かについては、覚えていないと曖昧に答えていること、一方、一回めに同教室に出入りした際の同証人の行動経路については、教室の二年五組の側の出入口から入つて、教卓の前を通り校庭側の通路を通つてロッカーを捜し、後方の出入口から出て階段を降りたと明確に供述し、その点では原告堂前政昭本人尋問の結果と一致していること(但し、泰弘が教卓のところで体操着に着替えたか否かという点で異なる。)、また、同証人は、『藤田教諭から、泰弘と新井有治が原告政昭を殴つたのであろうと言われていたので、原告政昭が同教諭にそのようなことが告げたのか確かめようと思い、二人で金子外科病院に入院中の原告政昭のところまで行つたが原告政昭はそのようなことは教諭らに話していないと言つていた』旨供述しているが、原告堂前政昭本人尋問の結果によれば、五月一二日ころ、右両名が来たが、泰弘は、ぼくがやつたんじやないだろうと原告政昭を牽制ないし脅迫する感じであつたこと、原告政昭は恐かつたので本当のことを言えず、曖昧にしか答えなかつたことを認めることができ、更に本件暴行の動機の点についてみても、同証人は、『原告政昭と一緒に遊んだことはなく、同人に対していばつているとか特別の感情をもつたことはない』旨供述しているが仮に右供述どおりとしても、本件暴行の形態からみて、本件暴行は加害者が確たる動機もなくふざけ半分で殴つたものと推認できること、原告堂前政昭本人尋問において原告政昭は、同人が教室を出るとき後ろを見たら泰弘一人が教室におり、出口の方に小走りに向つて来るのを見たこと及び本件暴行の後、原告政昭はその衝撃でその場にしやがみ込んだけれども、直ちに意識を失つたわけではなく、そのとき泰弘が小走りに階段を降りて行くのを見ている旨明確に供述していること等の諸点を総合すると、証人山田泰弘の前記本件暴行とは無関係とする供述部分は採用し難いものというべきである。

なお、証人山田きみ子も右認定に反する供述をしているけれども、同証人の証言自体、概ね証人山田泰弘の右供述を根拠にしているものと認められるから、右同様採用し難いものというべきである。

しかして、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

二本件暴行によつて原告政昭に生じた傷害について。

1  〈証拠〉によれば、次の(一)、(二)の事実を認めることができ、これに反する証拠はない。

(一)  原告政昭は、小学生のころの体育の授業の成績は四か五で、四年生から六年生にかけて野球もやり、中学一年生の時には運動会でリレーの選手になるなど、体育は得意なほうであつた。本件暴行のあつた日まで、学校には普通に通つていた。

(二)  原告政昭は本件暴行の直後、その衝撃で少しの間その場にしやがみ込んだが、前方に倒れることなく、意識も失わなかつた。一人で下校し、午後四時ころ帰宅したが、下校途中から乗物酔いのように気分が悪くなり、吐気及びめまいを感じるようになつた。なお途中で唾の中に血が混じつているのに気付いた(但しこれが頭又は首の上付近から出血したものと思う旨の原告堂前政昭本人の供述は証人金子八郎の証言に照らし採用し難い。)。帰宅後も吐気、めまいが続いたので、原告政昭の母原告百合子が日大板橋病院に連れて行つたが、ここで診察を受けることはできず、そこから救急車で他の二、三の病院を回り、結局、金子外科病院に運ばれた。

2  次に、原告政昭が金子外科病院に入院していたことは当事者間に争いがないので、この間の原告政昭の症状について検討するに、〈証拠〉によれば次の(一)ないし(五)の各事実が認められる。

(一)  原告政昭は、昭和五四年五月二日午後七時三〇分に救急車で金子外科病院に運ばれ、当直医の診察を受けたが、このときの症状は、血圧一四四/七六、吐気(+)、嘔吐(−)、瞳孔左右不同(−)、意識不明(−)、意識清明、後部強直(−)、後頸部痛(−)ということであり、原告政昭又は原告百合子が医師に対して、同日午後三時ころ後頭部を殴られ同四時ころから吐気が現われた旨及び右四時ころから現在まで一般状態は徐々に悪化したようである旨説明したが、このときには、原告政昭の頭部には、出血、こぶなどの外傷は観察されなかつた。当直医は、原告政昭の吐気が頭部外傷によるものではないかと疑い、経過観察のために入院させることとした。その際、脳の浮腫を予防するためステロイド及び止血剤を与えた。

(二)  翌三日にも吐気は持続したが、三日午後九時ころには、吐気にかわつて、頭痛を感じるようになり、以後入院中、ときどき頭痛があつた。五月四日には頸部に痛みを感じた。五月二四日ころから階段を昇る途中で目まいを感じるようになり、そのうち、右足にしびれを感じるようになり歩けなくなつた。

(三)  右のような症状に対し、医師は、五月三日に頭部のレントゲン撮影、血液一般検査及び検尿を、同月四日に頸部のレントゲン撮影を行つたが、いずれも異常なく、また、同日腰椎穿刺及び眼底検査を行つたが、髄液は透明であつて脳の出血はなく、眼底には脳圧の亢進を示すうつ血乳頭の所見はなかつた。その他、入院中に、白血球、赤血球、血色素量、ヘマトクリット(以上、血算一式)、B・S・G(血沈)、肝機能、CRP、RA(リウマチ因子)、ASLO(幼年期感染)、アルカリP、白血球像についても検査したが、いずれも異常はなく、胸部及び胃のレントゲン撮影の結果も異常はなかつた。五月一二日には脳波を調べたが異常はなかつた。原告政昭が前記のとおり足のしびれを訴えたころ、金子医師が診察しても、腱反射、知覚は正常で運動麻痺は観察されなかつた。

(四)  金子医師が昭和五四年一〇月四日に作成した原告政昭に関する診断書によれば、病名は、「後頭部打撲挫傷、頸部捻挫、ギラン・バレー症候群の疑い」であり、「昭和五四年五月二日後頭部打撲挫傷、頸椎捻挫にて入院、安静加療中歩行困難となりギラン・バレー症候群の疑い様症状を認めたので日大病院紹介状作製、五四年六月五日転医退院す」、とある。ところで、ギラン・バレー症候群は、本件暴行のような外傷によつて起こる疾病ではないけれども、金子医師は、内科的疾患は自己の専門外であることもあり、また、大学病院に対する紹介ということもあつてこのような疑いがあるとしたのである。

(五)  原告政昭は、前記(二)のような症状が現われてきたが金子外科病院ではその原因がわからなかつたので、五月二九日に日大板橋病院で診察してもらい、結局、六月五日に金子外科病院を退院した。

なお、原告堂前政昭及び同堂前富昭は各本人尋問において、本件暴行の当日から金子外科病院に入院して二日くらいの間、意識がなかつた旨供述しているが、当時のカルテ(前記乙第一号証)及び看護記録(前記乙第五号証)には意識清明ないし明瞭との記載があることからすれば、原告らの右供述部分はにわかに採用し難い。

他方、証人金子八郎は、五月末ころ、原告政昭が元気になつたので外泊を許したところ、病院に戻つてきてから、状態が悪化したため日大板橋病院を紹介したと供述しているけれども、原告政昭は、後記3(一)認定のとおり、五月二九日から佐々木病院の紹介で日大板橋病院で診療を受けていることに照らせば、右供述部分は採用し難い。

しかして、他に右(一)ないし(五)の認定を左右するに足る証拠はない。

3  原告政昭が日大板橋病院、日本橋整骨院、東大病院及び菊地鍼灸治療所に通院したことは当事者間に争いがないので、この間の原告の症状及び治療の状況について検討するに、〈証拠〉を総合すると次の(一)ないし(五)の各事実を認めることができ、他にこれを左右するに足る証拠はない。

(一)  原告政昭は、前記2(二)のとおり、足がしびれて歩けなくなるほどの症状が現われたので、原告ら宅近くの佐々木病院の紹介により、日大板橋病院脳神経外科で診療を受けることとし、昭和五四年五月二九日から同年一〇月二九日にかけて、八五回通院した。

(二)  同科の菅原武仁外来医長の診断によれば、昭和五四年一〇月ころの原告政昭の症状としては右下肢麻痺が続いていたが、これは頭部外傷Ⅱ型(脳振盪型)、外傷性頸部症候群に当たり、脳波検査、頸部レントゲン撮影、CTスキャン、腰椎穿刺、筋電図検査では特に異常は認められず、外来通院でニューロセプターによる加療(神経の通電治療)を行つているが軽快しておらず、精神的な要因も検討中であるということであつた。

(三)  原告政昭は、昭和五四年七月五日から昭和五五年三月二六日にかけて、日本橋整骨院に四四日通院し、カイロプラクティックの治療を受けた。

(四)  昭和五四年七月二〇日から同年九月五日まで一一回通院して、東大病院脳外科及び神経内科において診察を受けたが原告政昭の症状の原因についてはつきりしたことはわからなかつた。

(五)  原告政昭は知人に勧められて、昭和五四年七月二三日から同月二七日にかけて神奈川県箱根町湯本六九三菊地鍼灸治療所に五回通院し、針治療を受けた。

4  原告政昭が国立病院医療センターに入院したことは当事者間に争いがないので、この間の症状について検討するに、〈証拠〉を総合すると次の(一)ないし(六)の各事実を認めることができ、他にこれを左右するに足る証拠はない。

(一)  原告政昭は、昭和五四年一〇月三〇日に、国立病院医療センター(東京都新宿区戸山町一)の麻酔科で初診を受け、翌日同科に入院し、昭和五五年二月二六日まで同センターに入院して治療を受けた。

(二)  入院当初の局所所見は、タッチ、ピンプリック、ヴァイブレーションといつた知覚検査で右半身の知覚が鈍麻しており、右足の先の部分は知覚脱失の状態であつた。なお、入院時には、車椅子を使用していたが松葉杖による歩行もできるということで病院側ではこれを勧めていた。

(三)  同センター脳神経外科、神経内科において診察を受けたところ、昭和五四年一一月の原告政昭の症状は、脳神経に関しては、顔の状態が左右対称でなく、睫毛現象が右に異常があること、口角、瞳孔の反応、角膜の反射、いずれも右側に異常があること、運動神経に関しては松葉杖を用いて歩行できたこと、右上肢に多少麻痺があること、右下肢は完全に弛緩性の麻痺があること、右の指の指折りができないこと、反射については病的反射はないこと、右側の知覚が低下していることであつた。

(四)  同センター精神科の診察によると、原告政昭の麻痺はヒステリー性のものではないかとの疑いがもたれたので、同科において、心理テストとしてロールシャッハテスト及びHTP描画テストを実施した。これらのテストの結果は、外界のすべてに不安を持ち易く、それにより情緒動揺をきたされないように意識的には非常に警戒的、抑制的となつており、又、内的にも思考の遮断が起こるものと推測されること、環境に対する関心が敏感であること、実際の能力以上に高い目標に達しようと思つて劣等感や無力感を感じ易いこと、男性的な役割を果すことへの自信が持てず、劣等感や無力感をできるだけ感じないように行動を制限しており、社会が自分に求めているものを拒否しようとしていること、が観察された。

(五)  一二月五日に、CTスキャンによつて脳を検査したが異常は発見されなかつた。そこで、右(四)の診察結果をも考慮すると、原告政昭の病状はヒステリー性の麻痺ではないかとも疑われたので、麻酔科及び精神科の医師が、睡眠剤を用いるイソミタール・インタビュー・テストを行つた。同テストの結果、右下肢の麻痺は心因性のものではなく、器質的な異常に基づいているものと判断された。

(六)  同センター神経内科、脳神経外科及び精神科の各医師の診察結果を総合すると、原告政昭の当時の症状からは、この症状が、脳の左内包に器質的な障害があり、これに心因的な要素が加わつたために生じたものであると診断された。原告政昭が山下医師を始め、同センターの医師らに対してなしていた麻痺に至る経緯に関する説明は、一部事実に符合しないところがあつたけれども、右診断は、原告政昭の当時の症状を中心としてそこから演繹されたものであつた。

5  〈証拠〉によれば次の(一)ないし(五)の各事実を認めることができ、これに反する証拠はない。

(一)  原告政昭は、国立病院医療センターを退院後、昭和五六年二月ころまで十数回にわたり東京都心身障害者福祉センターに通つてリハビリテーションを受けた。

(二)  昭和五六年一月一九日ころの状態は、同福祉センター物療内科今村哲夫医師の診断によれば、躯幹を含む右弛緩性麻痺、左に右より軽度の痙性麻痺を呈する、自立での起立他不能というものであり、障害の程度は身体障害者福祉法別表第四の第一(第二級)に該当するとされた。

(三)  その後、昭和五六年三月ころには松葉杖を使わないで歩けるようになり、同年四月には都立板橋高校に通うようになつた。同校は、原告ら宅から歩いて五分くらいのところにあるが、原告政昭は自転車で通学していた。学校の授業は体育の授業も含めて普通に参加しており、一〇〇メートル疾走の走行時間を測つたが、クラスで二番めに遅かつた。クラブ活動は野球部に入つた。

(四)  昭和五七年六月の状態としては、右福祉センター整形外科岡村豊治医師の診断によれば、傷病名は、「頸損による右手足機能障害」、現症は「疾走困難、右足先がひつかかる感じ、右手指運動緩慢巧緻性やや欠如、右膝蓋腱反射消失、右足先特に趾の伸展困難、跛行は殆んど目立たない」ということであり、障害の程度は身体障害者福祉法別表第四の第一(第六級)に該当するものとされた。

(五)  昭和五七年一〇月一日の状態としては、日大板橋病院脳神経外科林成之医師の診断によれば、「現在の症状は右上下肢の軽い運動障害がある。握力は右一五キログラム左三八キログラムと左右差があり、下肢では右の片足起立が困難で特に閉眼では著明となる。四肢に筋萎縮が認められないこと、反射が亢進していることより末梢神経麻痺とは考えられず、上記の診断に示されるごとく中枢性の障害によるものと考えられる。」というものであつた。

6  〈証拠〉によれば、次の事実を認めることができ、これに反する証拠はない。

昭和五八年六、七月頃の原告政昭の症状及び検査結果は、CPK(クレアチンフォッソカイネース)正常、脳波・脳Cスキャン正常、頸椎のレントゲン撮影異常なし、右上肢の三角筋及び右下肢の短母指屈筋に筋電図上神経原性変化を認める、立位では常に体重を左脚に乗せており歩行時には左上肢を振らず左手指に不随意運動が起こる、これにより指をこすり合わせるため左母指の関筋に胼胝(たこ)を形成している、脳神経領域は正常、胸部腹部に異常所見なし、上肢は伸展屈曲とも力は強く特に左の方が筋力は強いがこれは左利きのためと思われる、握力右二七キログラム左三四キログラム、筋萎縮はなく上膊囲左二五センチメートル右二四センチメートル、腱反射は左右差なくワルテンベルク反射両側陽性、下肢は筋萎縮なく筋力は正常範囲内であるが左右差が明らかで左側が強い、しかし右下肢の筋力低下(右の不全片麻痺)はそれほど強いものでなく自ら立ち上がることができる程度の低下である、膝反射は坐位で検査すると右が出ないがジャンドラシック法(被験者の気をそらして行う)によると両側同程度に出現し正常である、病的反射は認められず、知覚障害はない、というのであつた。また、原告政昭は非常にため息をつきやすく相当精神的なストレスが加わつていると疑わせ、歩行の際右側を引きずるような歩き方をするが、その割には右下肢の筋力低下の程度は大きくないものと観察された。

7  前記1ないし6の認定を前提として、まず、原告政昭の右1ないし5の症状が本件暴行と相当因果関係を有するものであるかという点について検討するに、右1ないし5の症状の発生の経緯、ことに原告政昭は本件暴行を受けるまで普通に通学していたのに、後頭部を殴られるという本件暴行の当日から入院し、約二〇数日後にしびれ、麻痺等の症状を呈し、以後昭和五六年春ころまでその症状が継続したこと、右4のとおり諸検査の結果左内包に何らかの障害があると診断されたことからすると、右1ないし5の症状は、本件暴行によつて引き起こされたものとして、本件暴行と相当因果関係を有するものと認めるのが相当である。

脳波検査、CTスキャンによつては脳の器質的な変化は観察されなかつたとしても、〈証拠〉によれば、脳に器質的な障害があつてもそれが小さい場合又は軽度な場合には検査結果に現われないことがあると認められるから、器質的変化が観察されないからといつて直ちに本件暴行と右症状との相当因果関係を否定すべきものではない。

また、右1ないし5の症状については、〈証拠〉によつても、心因的な要素がかなり強く影響しているものと認められるけれども、本件暴行のように頭部ないし頸部に対して衝撃を加えられた後に生じた右1ないし5のような症状については、心因的要素が強いからといつて、直ちに相当因果関係を否定すべきものではない。

従つて、右1ないし5の症状は本件暴行と相当因果関係を有するものと認めることができ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

8  次に、原告政昭につき、その神経系統の機能に関して本件暴行による後遺障害が生じているか(請求原因4(三)(3))について検討する。

なるほど、原告政昭の症状は右1ないし5認定のとおりの経緯を辿つているのであるが、このことから直ちに現在及び将来にわたつて原告の右上下肢の神経系統の機能に障害が存するものとはいえず、これについては、もつぱら最も新しい右6認定の症状を前提として神経学的知見に基づいて判断するのが相当であると解すべきところ、〈証拠〉を総合すると次の(一)ないし(六)の事実を認めることができる。

(一)  右6の所見のうち神経学的に異常というべき点は、左手指の不随意運動、右下肢の筋力低下及び筋電図における神経原性変化の三点である。

(二)  左手指の不随意運動は、脳の器質的変化に基づくものと思われるけれども、本件暴行以後に起こるようになつたのか、それ以前から起きていたのか確定できず、また、本件暴行即ち後頭部を殴られることによつて生ずるとは考えにくい性質のものである。

(三)  筋電図における神経原性変化は末梢神経の異常を示すが、このうち右上肢の三角筋に関する異常は、頸髄の損傷に基づくことがあるけれども、これはかなり高頻度にみられ、本件では頸椎のレントゲン撮影で異常がないことからも骨の変形によるものではない。他方、右下肢の短母指屈筋に関する異常は、スポーツ等の他の原因によつて生じたものと考えられる。

(四)  右下肢の筋力低下の原因は、一応、中枢神経の異常、末梢神経の異常、筋肉の異常及び心因的なものの四つが考えられる。このうち、筋肉の異常については、CPKが正常であり、筋肉の萎縮もないから否定すべきである。中枢神経の異常たとえば脳の左内包の異常によつて筋力低下が起きる場合には、普通、反射が亢進して病的反射が出るのであつて、これが全くないことからすると、内包の異常によるものとは考えにくい。また内包の異常によつて末梢にいくほど強い障害を受けるということは、普通起らない。頸髄の損傷によつても中枢性の麻痺は起るが、これによるものであるかについては、頸髄の損傷の場合には、片麻痺ではなく両側が麻痺し、また下肢よりも上肢に強く影響が出るのが通常であり、知覚障害が起ることが多いので、原告政昭の前記認定の症状とは合致しない上、頸椎のレントゲン撮影の結果も異常がない。末梢神経の障害の場合には筋肉の萎縮が起るので原告政昭の前記症状に合致しない。

(五)  本件暴行のように後頭部を殴打することによつて生じ得る器質的な傷害として、脳振盪、脳挫傷又は血腫のような脳の傷害、頸髄の損傷、頸髄から出ている末梢神経の傷害を考えることができるが、前記6、右(一)ないし(四)のとおり、原告政昭の右症状と、これらの生じ得る傷害とは、いずれも結びつかない。

(六)  他方、原告政昭の右症状と心因的な要素の関係については、ジャンドラシック法による検査結果、歩き方、よくため息をつくこと、前記5のような回復の経緯等からみて、かなり強い関係がある。

右(一)ないし(六)の認定を左右するに足る証拠はない。

右(二)、(三)によれば、原告政昭の器質的な異常(左手指の不随意運動及び筋電図上の神経原性変化)については、本件暴行との因果関係を認めることはできず、更に、右(四)、(五)によれば、右下肢の筋力低下は、本件暴行によつて生じ得る器質的変化との間にその結びつきを考えられない。また、他に神経学的異常所見がない場合に筋力低下自体をもつてそれが固定した後遺障害といえるか疑問がある。

なお、原告政昭について前記4(六)のとおり、左内包に障害があるとの診断がなされたことはあるが、少なくとも昭和五八年六、七月においては、原告政昭は右診断の前提となつた諸症状を呈していないのであるから、右診断をもつて、直ちに現在の右障害の原因を正しく現わしているものということはできない。

以上のとおりであるから、原告政昭について、本件暴行によつて神経系統の機能に後遺障害を生じたとの事実を認めることはできない。

しかして、他にこれを認めるに足る証拠はない。

三被告山田の責任について。

本件暴行時泰弘が満一三歳六か月(昭和四〇年一〇月二一日生れ)であつたこと及び被告山田が泰弘の親権者であることは当事者間に争いがなく、他に特段の事情のないかぎり、泰弘はその年齢からして本件暴行の責任を弁識するに足りる能力を備えていなかつたものと認めるほかないから、泰弘の親権者である被告山田は民法七一四条により原告政昭に生じた後記五の損害について賠償義務を負う。

四被告都の責任について。

1 原告らは、本件暴行は、泰弘及び原告政昭の各学級担任の教諭らに生徒に対する保護監督義務違反行為があつたことによつて生じたものであるとして被告都に対して国家賠償法一条又は三条に基づく損害賠償を求めているので、まず右前提となつている主張(請求原因3(一)ないし(四))について検討する。

2 請求原因3(一)の事実即ち本件暴行当時、原告政昭の学級担任である小野教諭及び泰弘の学級担任である吉富理之教諭が、それぞれその担任する学級の生徒について保護監督義務を負つていたことは当事者間に争いがないところ、右担任教諭らの監督義務の範囲は親権者らのそれが生徒(児)の全生活関係に及ぶのと異なり、学校教育の場における教育活動及びこれと密接に関連する生活関係についてだけに限られるものというべきである。

そこで本件についてみるに、本件暴行は、教育活動として行われた教室の清掃も終わり(清掃が学校の教育活動の一部であることは当事者間に争いがない。)、下校時刻である午後三時三〇分を過ぎてから、前記一判示のとおり清掃とは無関係に行われたものであり、また、泰弘はサッカー部の練習に参加する途中であつたとはいえ、本件暴行はサッカーの練習とは無関係に、通りがかりに原告政昭を一回殴つたという態様のものであること、〈証拠〉によれば、当日午後三時三〇分ころ、本件暴行の直前に、小野教諭及び二年二組の学級担任であつた梅田愛子教諭が居残つている生徒に下校を促すために二年六組の教室にも見回りに来た事実を認めることができることからすれば、本件暴行は校舎内の教室出入口付近の廊下で行われたものであるとはいえ、教育活動又はこれと密接に関連する生活関係から生じたものとはいえず、もはや教諭の監督の及ぶ限りではなかつたものというべきである。

3 原告らは、本件暴行が発生した当時、第一中学校二年生の中に弱い者いじめをするグループがあり、泰弘もこのグループに属していたから、教諭らには、右グループの生徒に説諭し、その親と話し合い又はそのような生徒を常時監視すべき義務があつた(請求原因3(二)、(三))と主張する。

〈証拠〉によれば、昭和五四年五月当時、第一中学校二年生であつた本田、松沢、星野及び泰弘は、同校一年生のときに同じクラス(一年三組)であつたので一緒に遊んだり、同クラスの他の生徒をいじめたこともあつたこと、しかし、泰弘は本件暴行以前に他の生徒に暴行を加えたために教師から指導を受けた経歴はなかつたこと、本田という生徒は小学生のころから問題があり中学校一年生の時にも乱暴な行為をすることがあつたこと、しかし右一年三組の生徒らは、当時未だはつきりしたグループを形成して常習的に弱い者いじめをしていたわけではなく、従つて同校教諭の間では右生徒らについて特段問題になつたことはなかつたこと、新井有浩は二年生になつてから泰弘と同じクラス(二年五組)になつたこと、本田が中心となり、松沢、星野、新井らが第一中学校内で消火器の薬を廊下に撒くなど目立つた暴行行為等を行うようになつたのは同人らが三年生になつてからであることを認めることができ、右認定に反する〈証拠〉は採用し難く、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

右認定事実を前提にすると、本件暴行当時、泰弘に関して、その担任教諭らが何らかの特別な措置を講ずべき必要があつたものとは認められないし、他にこれを認めるべき特段の事情も窺われない。してみると、同教諭において泰弘に対して特に説諭を加え、親と話し合い、又は泰弘を常時監視するという注意義務が発生していたとは認めることができない。

他に、第一中学校の教諭において生徒に対してなしていた日常の生活指導、監督に格別の欠陥があつたことを裏づけるべき特段の事情もない。

4  従つて、その余の点について判断するまでもなく、小野教諭及び吉富教諭の保護監督義務違反があつたことを前提とする原告らの被告都に対する請求は理由がない。

五本件暴行によつて原告らの被つた損害について。

1  原告政昭の被つた積極損害(請求原因4(四))について検討する。

(一) 〈証拠〉によれば、原告政昭は、本件暴行によつて生じた前記二1ないし4の症状の治療のために、同判示のとおり入院又は通院した各医療機関に対し、治療費として金子外科病院に金一九万五一一〇円、日大板橋病院に金二万九四〇〇円、東大病院に金二万二八四二円、日本橋接骨院に金一三万五〇〇〇円、菊地鍼灸治療所に金一万〇五〇〇円及び国立病院医療センターに金二五万八四三五円、以上合計金六五万一二八七円を支払つた事実を認めることができ、これに反する証拠はない。この治療費は、本件暴行によつて生じた前記二1ないし4判示のとおりの症状に関して支出されたものというべきであるから本件暴行によつて生じた損害である。なお、〈証拠〉によれば金子外科病院においては、原告政昭の胃炎に関する検査治療もなされたことを認めることができるが、〈証拠〉によれば、原告政昭が吐気及び胃痛を訴えたので胃のレントゲンを撮影したけれども異常はなかつたこと、しかし健康保険との関係で胃炎という病名をつけたものと認めることができるから、これに関する支払も本件暴行によつて生じたものというべきである。

更に、〈証拠〉によれば、原告政昭が菊地鍼灸治療所に通院するために箱根町湯本の旅館和泉に昭和五四年七月二三日から二七日までの四日間宿泊し、計一〇万二三四〇円を宿泊料として支払つたことが認められる。しかし、このようなはり治療を箱根に出向いてまで受ける必要性があつたか疑問であるし、また、本件において医師から温泉療養をすすめられたというような事情も窺われないのであるから、この宿泊費は本件暴行と相当因果関係にたつ支出とは認め難く、他にこれを認めるに足る証拠はない。

従つて、治療費としては金六五万一二八七円の損害となる。

(二)  原告政昭は金子外科病院に三五日間入院したことは前記認定のとおりであるが、その症状、年齢に照らしこの間は看護が必要であつたものというべきであり、一日当たり金三〇〇〇円の入院付添費が必要であつたものと推認するのが相当であるから、この間、入院付添費として金一〇万五〇〇〇円の損害を被つたものと認められる。

(三) 原告政昭は右金子外科病院の他前記二4認定のとおり国立病院医療センターに一一八日以上入院しており、合計一五三日は入院していたのであるが、入院雑費として一日当たり金一〇〇〇円の費用を要したものと推認するのが相当であるから、これにより計算すると、金一五万三〇〇〇円が入院雑費の損害と認められる。

(四) 原告政昭は、前記二3認定のとおり、日大板橋病院に八五日、東大病院に一一日、日本橋接骨院に四四日、菊地鍼灸治療所に五日の計一四五日通院したところ、原告政昭の症状、年齢に照らし、通院付添費として一日当たり一五〇〇円を要したものと推認するのが相当であるから、これにより計算すると金二一万七五〇〇円が通院付添費の損害と認められる。

(五)  右通院一四五日につき、一日当たり金一〇〇〇円の通院交通費を要したものと推認するのが相当であるから、これにより計算すると金一四万五〇〇〇円が通院交通費の損害と認められる。

(六)  〈証拠〉によれば、原告政昭は前記判示の症状のため昭和五四年六月八日に便器を購入し、その代金として金六〇〇〇円を支払つたことを認めることができ、これに反する証拠はない。

したがつてこの金六〇〇〇円は、本件暴行によつて被つた損害というべきである。

(七)  請求原因4(四)(7)の医師に対するお礼については、これがいつ誰に対して支払われたとの主張もなく、また支払の事実に関する証拠もないから、本件暴行による損害として認めることはできない。

(八)  以上(一)ないし(六)の合計は、金一二七万七七八七円となる。

2 原告政昭の逸失利益については、後遺障害に関し前記二8判示のとおりであるから、後遺障害を前提とする原告政昭の主張(請求原因4(五))は理由がない。

3 原告政昭の慰藉料については、本件暴行によつて原告政昭に生じた症状、そのために入通院した期間等、前記二判示の諸事情を総合すると、本件暴行によつて原告政昭の被つた精神的苦痛を慰藉するには金二五〇万円が相当である。

4 原告富昭及び原告百合子が原告政昭の父母であることは当事者間に争いがない。しかしながら、原告政昭が本件暴行により前記二1ないし5判示の傷害を受けたことを前提にすれば、右原告らは、未だそのために原告政昭が生命を害されたにも比肩すべき精神上の苦痛を受けたものと認めることはできない。

従つて、原告富昭及び原告百合子は被告らに対して本件暴行による慰藉料請求権を有するものと認めることはできず、他にこれを認めるに足る証拠はない。

5  損害の填補についてみるに、原告政昭が被告山田から昭和五四年六月中旬に見舞金として金一〇万円を受け取つたこと、原告政昭が昭和五四年一二月二〇日に日本学校安全会から金七万〇二九〇円を受領したことは当事者間に争いがない。

〈証拠〉によれば原告政昭は、昭和五九年五月九日に日本学校健康会から障害見舞金として金二二〇万円の支払を受けたことを認めることができ、右認定に反する証拠はない。

右の合計金二三七万〇二九〇円はいずれも原告政昭が本件暴行によつて被つた損害の填補として支払われたものとみるべきである。

6  弁護士費用については、弁論の全趣旨によれば、原告政昭は本件訴訟の提起及び追行を原告ら訴訟代理人に委任したことを認めることができ、本件事案の性質、審理の経過、認容額等を考慮すると、本件暴行と相当因果関係を有するものとして被告山田に賠償させるべき弁護士費用は、原告政昭につき金二〇万円が相当であると認められる。

7  従つて本件暴行により原告政昭の被つた損害額は、右1、3及び6の合計から右5の金額を差引いた金一六〇万七四九七円と認められる。

六以上によれば、被告山田は、不法行為に基づく損害賠償として原告政昭に対し金一六〇万七四九七円並びに内金一四〇万七四九七円に対する不法行為の翌日である昭和五四年五月三日から及び内金二〇万円に対する本判決確定の日からそれぞれ支払済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払義務があるものというべく、原告政昭の被告山田に対する請求は右の限度で理由があるからこれを認容し、原告政昭の被告山田に対するその余の請求及び被告都に対する請求並びに原告富昭及び原告百合子の被告らに対する請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文、九三条一項本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官根本 久 裁判官西尾 進 裁判官後藤 博転補につき署名捺印することができない。裁判長裁判官根本 久)

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